石畳の町並みを赤い自転車に乗って、颯爽とペダルをこぐオリビア。
大学までの道のりは自転車で片道30分。決して近い距離では無かったが、御者の顔色を伺いながら馬車に乗せてもらうよりも余程気が楽だった。何より風を切って自転車をこぐのは気持ちが良い。
いつものように正門を自転車で通り抜けると、学生たちの好奇に満ちた視線が向けられる。
はじめはその視線が気まずかったが、今ではすっかり慣れてしまっていた。 正門の隅の方に自転車を止めると、前方から友人のエレナが手を振って近づいてきた。彼女はオリビアの自転車に興味を持ったことがきっかけで友人になれた一人でもある。「おはよう、今日も自転車で通学してきたのね?」
「ええ、だってとても良い天気じゃない。多分、この様子だと雨は降らないはずよ」
空を見上げれば、雲一つ無い青空が広がっている。
「それじゃ、教室に行きましょう」
「ええ、そうね」
エレナに誘われ笑顔で返事をすると、2人で校舎へ向って並んで歩き始めた。
「あのね、オリビア。私も実はあなたにならって自転車を買ったのよ」「え? そうなの? それは驚きだわ」
「これも全てあなたの影響ね。ようやく少しずつ乗れるようになってきたところなの。やっぱりいつまでも、どこかへ行くのに、御者に頼るのっていやだったのよね。少しは自立出来るようにならないと」
「……そうね」
オリビアは曖昧に返事をした。家族関係が良好なエレナには自分の置かれた境遇をどうしても言えなかったのだ。
(家族や使用人たちから冷遇されているので、馬車にも乗りづらくて自転車を使っているなんて絶対エレナには言えないわ。もしそのことを知れば、きっと気を使わせてしまうもの)
「そう言えば、来月は秋の学園祭ね。後夜祭はダンスパーティーがあるけれど、パートナーはギスランと参加するのでしょう?」
不意に話題を変えてくるエレナ。
ギスランは同じ大学に通う同級生であり、親同士が決めたオリビアの婚約者でもあった。「ギスランがパートナーになってくれるかどうかは……まだ分からないわ」
オリビアの顔が曇る。
「あら? どうしてなの?」
「それ……は……」
オリビアはそこで言い淀む。
なぜならギスランはここ最近、急激に大人っぽくなった異母妹のシャロンに夢中になっていたからだ。 オリビアに会いに来たと言っては、シャロンと2人だけでお茶を楽しむような関係になっていた。 それにオリビアには内緒にしているが、2人がこっそりデートをしていることもメイドたちの噂話で知っている。(シャロンはまだ15歳なのに……。でもこのままだと今にギスランは、私からシャロンに乗り換えるつもりかもしれないわ。婚約解消を告げられるのも、時間の問題かも……)
そう考えると、重苦しい気分になってくる。
ギスランは親が決めた婚約者であり、別に好きというわけでも無かった。けれど息苦しい家を早く出たいオリビアにとって、ギスランは希望の存在だったのだ。「どうかしたの? オリビア」
エレナが心配そうにオリビアの顔を覗き込んだ。
「いいえ、なんでもないわ。そういうエレナはどうなの?」
「勿論、婚約者のカールと参加するわよ。それで、ドレスのことなのだけど……」
そのとき。
「いい加減にしろ! アデリーナッ!」
校舎のそばにある中庭付近で男性の興奮した声が響き渡った。
「キャッ!」
「な、何!? 今の声は!」突然大きな声に、2人は同時に驚き、中庭を振り返った。すると3人の男女の姿が目に入った。
1人はブロンドの髪の青年。その隣には栗毛色の髪の女性が寄り添っている。 そして2人に対峙するように正面に立っているのは、情熱的な赤い髪の女性。「あら。あの方は4年生で侯爵令嬢のアデリーナ様だわ」
「え? 侯爵令嬢なの?」
エレナの言葉に驚くオリビア。
「ええ、知らなかったの? 有名な方よ。そしてあの男性はアデリーナ様の婚約者のディートリッヒ侯爵よ。でも一緒にいる女性はどなたかしら?」
けれど、エレナの言葉はオリビアの耳には届いていない。
何故なら、燃えるような髪色の美しいアデリーナにすっかり見惚れてしまっていたからだ――「何を怒ってらっしゃるのですか? ディートリッヒ様」侯爵令嬢アデリーナは真っ直ぐにディートリッヒを見つめている。「お前は俺が何故怒っているのか分からないのか!?」ディートリッヒはアデリーナを指さした。「ええ、分かりませんから尋ねているのです。それはさておき……ディートリッヒ様」キッとアデリーナはディートリッヒに鋭い目を向ける。「な、何だ?」「いくらなんでも、人を指差すのはどうかと思いませんか? 礼儀という言葉を、もしやご存じないのでしょうか?」「何っ! おまえ、誰に対してそんな口を叩くんだ! 仮にも俺は……!」「ええ、ディートリッヒ・バスク侯爵。私の婚約者ですわよね? それなのに何故でしょう? 私よりも、そちらの令嬢と親しげに見えるのですが」そして栗毛色の女子学生を見つめた。「こ、怖い! ディートリッヒ様!」女子学生は咄嗟にディートリッヒの背後に隠れた。「大丈夫、俺がついている。サンドラ」サンドラと呼ばれた女子学生を慰めるように髪を撫でると、再びアデリーナを指さすディートリッヒ。「そんな目付きの悪い目で睨みつけるな! サンドラが怖がっているだろう!」「別に睨みつけてなどいませんわ。私は元々このような目つきですから。ですが先ほども申し上げましたが、あまり2人きりで学園内を歩き回られないようにお願いいたします。一応、私とディートリッヒ様は婚約者同士なのですから」「な、何だと……大体、お前と俺は親同士が勝手に決めた婚約者なだけであって、お前のことなんか認めていないからな!」「別に認めていただかなくても、私は一向に構いませんが?」「な、何だって!? 全く本当に可愛げのない女だ。サンドラ、あんな女は放っておこう」「はい、ディートリッヒ様」ディートリッヒはサンドラの肩を抱き寄せると、去っていった。「……全く、呆れた男ね。私達の婚約は覆すことなど出来ないのに」アデリーナは気にする素振りもなく、踵を返し……。「あら?」ことの一部始終を物陰から見ていたオリビアとエレナに鉢合わせしてしまった。「「あ……」」3人の間に気まずい雰囲気が流れる。「あなたたちは……?」怪訝そうに首を傾げるアデリーナ。すると――「た、大変申し訳ございませんでした! 中庭で大きな声が聞こえたので、つい何事かと思って……決して覗き見をしようとしていたわけ
その日の昼休みのこと――オリビアとエレナが大学内に併設されたカフェテリアで食事のお茶を飲んでいるときのことだった。「え? 何て言ったの? オリビア」ココアを飲んでいたエレナが首を傾げる。「だから、アデリーナ様とお近づきになるにはどうしたらいいのかと相談しているのよ」オリビアは紅茶を口にした。「お近づきになるなんて……あの方は4年生で、しかも侯爵令嬢なのよ? 私達みたいな子爵家の者が迂闊に近づけるような方じゃないわ。しかもね……」エレナは辺りをキョロキョロ見渡し、オリビアに顔を近づけてきた。「アデリーナ様って、気が強いことから……一部の女子学生たちから恐れられているの。どうやら悪女って言われているらしいわ」「悪女ですって!」驚きでオリビアの口から大きな声が飛び出す。その言葉に周囲に座っていた学生たちが一斉に2人に注目する。「ちょ、ちょっと! 声が大きいわよ! 周りに聞こえるじゃないの!」エレナが小声で注意した。「ごめんなさい。ちょっと驚いてしまって……でも、何故悪女と呼ばれるのかしら。自分の婚約者が他の女性と一緒にいれば注意するのは当然だと思うけど……」オリビアは婚約者と妹の仲が良いのに、咎めることが出来ない自分と比較する。「そう言えば、オリビア。今朝、ギスランが後夜祭のダンスパートナーになってくれるか分からないと言ってたけど……最近、どうしてしまったの? 以前は大学内で時々一緒に行動していたのに、最近はさっぱりじゃないの。もしかして何かあったの?」「それは……」エレナに今の自分の現状を説明しようか、迷ったそのとき。「あれ? その後ろ姿……もしかして、オリビアじゃないか?」不意に背後から声をかけられた。「え?」振り向くと、婚約者のギスランが友人たちと一緒にいた。「ギスラン!」婚約者から声をかけられたことが嬉しくてオリビアは立ち上がり、笑みを浮かべる。「ちょうど良かった。今度の休みに、またお邪魔しようかと思っていたんだ。都合は大丈夫そう?」「そうだったのね? ええ、勿論大丈夫よ」笑顔のままオリビアは頷き……次の瞬間、凍りつくことになる。「そうか、ではシャロンによろしく伝えておいてくれ」「!」オリビアの肩がビクリと跳ね、エレナの息を呑む気配が伝わってくる。「え、ええ。あなたが来るから家にいるようにってシャロン
――16時本日全ての講義が終わって帰り支度をしているオリビアに、エレナが声をかけてきた。「それじゃ、オリビア。また明日ね」「ええ、また明日」エレナは手を振ると、急ぎ足で去って行った。教室の入口には彼女の婚約者、カールが待っている。「……2人で一緒に帰るのね。デートでもするのかしら?」ポツリとつぶやき、ギスランの顔を思い浮かべた。オリビアとギスランは子供時代から婚約者していたが、一度も一緒に登下校したこともなければ2人きりで出かけたこともない。ただ月に数回、学校が休みの週末にだけ顔合わせという名目でどちらかの屋敷で会うだけだった。その際、特に会話をするわけでもない。同じ空間にいれば良いだけなので、ギスランはいつも持参した本を読み、オリビアを相手にしようとはしない。そこでオリビアは出来るだけ読書の邪魔にならないように、気を使って静かに刺繍をして過ごし……時間になるとギスランは帰って行く。そんな関係がずっと続いていた。本当はもっとギスランと仲良くなりたいと思っていた。しかし、相手がそれを望んでいない以上どうすることも出来なかった。どうせいずれは結婚するのだから、2人の関係もそのうち変わって来るだろうとオリビアは割り切ることにしたのだが……シャロンが15歳になった頃から変化が起こり始めた。気づけばギスランとシャロンが急接近し、オリビアとの距離が遠のいていたのだ。2人はオリビアが気づかない間に親密になり……今では隠すこと無く堂々と一緒に過ごすようになっていた。それが、たとえオリビアの眼の前であろうとも。「……仕方ないわね。シャロンは私と違って、可愛らしくて魅力的だもの……」ポツリとつぶやき、自分のダークブロンドの髪にそっと触れる。シャロンの髪はオリビアと違い、眩しく光り輝くようなプラチナブロンドだった。瞳は深い海のような青い色。容姿だけでは、どれもオリビアには敵わない。ただ、シャロンより秀でていることがあるとすれば頭の良さだけだったろう。オリビアは才女だったが、シャロンはそれほど賢くは無かった。だが、頭の良い女性は男性からは敬遠されがちだった。「婚約解消されるのも時間の問題かもしれないわね……そして代わりにシャロンと……」ため息をつくとオリビアは立ち上がり、教室を後にした――**** オリビアは大学の図書館を訪れていた。家
20歳の子爵家令嬢――オリビア・フォード。背中まで届くダークブロンドの髪に、グレイの瞳の彼女は貴族令嬢でありながら地味で目立たない存在だった――――7時半いつものようにオリビアはダイニングルームに向って歩いていた。途中、何人かの使用人たちにすれ違うも、誰一人彼女に挨拶をする者はいない。 使用人たちは彼女をチラリと一瞥するか、これみよがしにヒソヒソと囁き嫌がらせをする者たちばかりだった。「いつ見ても辛気臭い姿ね」突如、オリビアの耳にあからさまな侮蔑の言葉が聞こえてきた。思わず声の聞こえた方向に視線を移せば、義妹のお気に入りの2人のメイドがこちらをじっと見つめている。「あー忙しい、忙しい」 「仕事に行きましょう」目が合うと2人のメイドは視線をそらし、そのまま通り過ぎて行った。「ふん、この屋敷の厄介者のくせに」一人のメイドがすれ違いざまに聞えよがしに言い放った。「!」その言葉に足が止まりメイド達を振り返ると、楽しげに会話をしながら歩き去っていく様子が見えた。「はぁ……」小さくため息をつくと、再びオリビアはダイニングルームへ向った―― ダイニングルームに到着すると、既にテーブルには家族全員が揃い、楽しげに会話をしながら食事をしていた。「そうか、それでは騎士入団試験に合格したということだな?」父親が長男のミハエルと会話をしている。「はい。大学卒業後は王宮の騎士団に配属されることが決定となりました」「そうか、それはすごいな。私も鼻が高い」「お兄様、素晴らしいですわ」ミハエルとは腹違いの妹、シャロンが笑顔になる。 そこへ、遅れてきたオリビアが遠慮がちに声をかけた。「おはようございます……遅くなって申し訳ありません」しかし彼女の言葉に返事をする者は誰もいないし、椅子を引いてくれる給仕もいない。テーブルの前には既に食事が並べられており、オリビアは無言で着席した。 食事の席に遅れてくるのには、理由があった。それは彼女だけが家族から疎外されていたからだ。 父親からは疎まれ、3歳年上の兄ミハエルからは憎まれている。義母からは無視され、15歳の異母妹からは馬鹿にされる……そんな家族ばかりが集まる食卓に就きたいはずはなかった。 そこで出来るだけ遅れて現れるようにしていたのである。オリビアが静かに食事を始めると義母がよく通る声で自慢
「それでは失礼いたします」朝食を終えたオリビアが席を立っても返事をするものは誰もいない。これもいつものことだ。オリビアは軽く会釈すると、そのままダイニングルームを後にした。廊下を歩くオリビアにすれ違う使用人たちは挨拶どころか、目を合わそうともしない。何故、彼女1人がこのような状況下に置かれているのか……それは彼女が、この屋敷では厄介者だったからだ――****オリビアの母は彼女を出産と同時にこの世を去った。愛する人を失った父と母親が大好きだった兄の喪失感は計り知れず、亡くなった原因をつくった怒りの矛先がオリビアに向けられたのだ。2人はオリビアと関わることを極力避け、彼女はメイドの手によって交代で育てられた。まだ幼かったオリビアは自分が何故父からも兄からも嫌われているのか理解できなかったが、心無いメイドの言葉で理由を知ることになる。『オリビア様のお母様は、あなたを産んだことで、亡くなってしまったのですよ』母が死んだ理由を知ったオリビアは少しでも自分を好きになってもらうために、父と兄に一生懸命愛嬌を振りまいた。絵のプレゼントや、花壇から花を摘んで花束にして渡そうと試みたが、2人は冷たい視線を投げつけるだけで受け取ってくれることは無かった。結局オリビアはプレゼントを渡すことは諦め、せめて2人と話をするときは笑顔になろうと決めた。たとえ相手にされなくても笑顔でいれば、いつかきっと2人は私を好きになってくれるはず――!そんな未来を思い描いていた矢先、父の再婚話が浮上したのである。相手の女性は当時まだ20歳になったばかりの男爵令嬢。父は彼女と再婚し……2年後、オリビアが5歳の時に異母妹となるシャロンが誕生した。 オリビアは妹の誕生に喜び、仲良くなるためにシャロンに近づいた。しかし、元からオリビアを良く思っていなかった義母がそれを許すはずなど無かった。徹底的にオリビアを遠ざけ、シャロンの前で罵倒する。そして見て見ぬふりをする父と兄。当然。シャロンもオリビアを馬鹿にするようになってしまったのだった――****「ふぅ……やっぱり自分の部屋は落ち着くわね……」部屋に戻ってきたオリビアはため息をつくと大学へ行く準備を始めた。彼女は現在、エリート貴族のみが通うことの出来る大学へ通っている。この大学は兄のミハエルすら通えなかった名門大学であり、そ
――16時本日全ての講義が終わって帰り支度をしているオリビアに、エレナが声をかけてきた。「それじゃ、オリビア。また明日ね」「ええ、また明日」エレナは手を振ると、急ぎ足で去って行った。教室の入口には彼女の婚約者、カールが待っている。「……2人で一緒に帰るのね。デートでもするのかしら?」ポツリとつぶやき、ギスランの顔を思い浮かべた。オリビアとギスランは子供時代から婚約者していたが、一度も一緒に登下校したこともなければ2人きりで出かけたこともない。ただ月に数回、学校が休みの週末にだけ顔合わせという名目でどちらかの屋敷で会うだけだった。その際、特に会話をするわけでもない。同じ空間にいれば良いだけなので、ギスランはいつも持参した本を読み、オリビアを相手にしようとはしない。そこでオリビアは出来るだけ読書の邪魔にならないように、気を使って静かに刺繍をして過ごし……時間になるとギスランは帰って行く。そんな関係がずっと続いていた。本当はもっとギスランと仲良くなりたいと思っていた。しかし、相手がそれを望んでいない以上どうすることも出来なかった。どうせいずれは結婚するのだから、2人の関係もそのうち変わって来るだろうとオリビアは割り切ることにしたのだが……シャロンが15歳になった頃から変化が起こり始めた。気づけばギスランとシャロンが急接近し、オリビアとの距離が遠のいていたのだ。2人はオリビアが気づかない間に親密になり……今では隠すこと無く堂々と一緒に過ごすようになっていた。それが、たとえオリビアの眼の前であろうとも。「……仕方ないわね。シャロンは私と違って、可愛らしくて魅力的だもの……」ポツリとつぶやき、自分のダークブロンドの髪にそっと触れる。シャロンの髪はオリビアと違い、眩しく光り輝くようなプラチナブロンドだった。瞳は深い海のような青い色。容姿だけでは、どれもオリビアには敵わない。ただ、シャロンより秀でていることがあるとすれば頭の良さだけだったろう。オリビアは才女だったが、シャロンはそれほど賢くは無かった。だが、頭の良い女性は男性からは敬遠されがちだった。「婚約解消されるのも時間の問題かもしれないわね……そして代わりにシャロンと……」ため息をつくとオリビアは立ち上がり、教室を後にした――**** オリビアは大学の図書館を訪れていた。家
その日の昼休みのこと――オリビアとエレナが大学内に併設されたカフェテリアで食事のお茶を飲んでいるときのことだった。「え? 何て言ったの? オリビア」ココアを飲んでいたエレナが首を傾げる。「だから、アデリーナ様とお近づきになるにはどうしたらいいのかと相談しているのよ」オリビアは紅茶を口にした。「お近づきになるなんて……あの方は4年生で、しかも侯爵令嬢なのよ? 私達みたいな子爵家の者が迂闊に近づけるような方じゃないわ。しかもね……」エレナは辺りをキョロキョロ見渡し、オリビアに顔を近づけてきた。「アデリーナ様って、気が強いことから……一部の女子学生たちから恐れられているの。どうやら悪女って言われているらしいわ」「悪女ですって!」驚きでオリビアの口から大きな声が飛び出す。その言葉に周囲に座っていた学生たちが一斉に2人に注目する。「ちょ、ちょっと! 声が大きいわよ! 周りに聞こえるじゃないの!」エレナが小声で注意した。「ごめんなさい。ちょっと驚いてしまって……でも、何故悪女と呼ばれるのかしら。自分の婚約者が他の女性と一緒にいれば注意するのは当然だと思うけど……」オリビアは婚約者と妹の仲が良いのに、咎めることが出来ない自分と比較する。「そう言えば、オリビア。今朝、ギスランが後夜祭のダンスパートナーになってくれるか分からないと言ってたけど……最近、どうしてしまったの? 以前は大学内で時々一緒に行動していたのに、最近はさっぱりじゃないの。もしかして何かあったの?」「それは……」エレナに今の自分の現状を説明しようか、迷ったそのとき。「あれ? その後ろ姿……もしかして、オリビアじゃないか?」不意に背後から声をかけられた。「え?」振り向くと、婚約者のギスランが友人たちと一緒にいた。「ギスラン!」婚約者から声をかけられたことが嬉しくてオリビアは立ち上がり、笑みを浮かべる。「ちょうど良かった。今度の休みに、またお邪魔しようかと思っていたんだ。都合は大丈夫そう?」「そうだったのね? ええ、勿論大丈夫よ」笑顔のままオリビアは頷き……次の瞬間、凍りつくことになる。「そうか、ではシャロンによろしく伝えておいてくれ」「!」オリビアの肩がビクリと跳ね、エレナの息を呑む気配が伝わってくる。「え、ええ。あなたが来るから家にいるようにってシャロン
「何を怒ってらっしゃるのですか? ディートリッヒ様」侯爵令嬢アデリーナは真っ直ぐにディートリッヒを見つめている。「お前は俺が何故怒っているのか分からないのか!?」ディートリッヒはアデリーナを指さした。「ええ、分かりませんから尋ねているのです。それはさておき……ディートリッヒ様」キッとアデリーナはディートリッヒに鋭い目を向ける。「な、何だ?」「いくらなんでも、人を指差すのはどうかと思いませんか? 礼儀という言葉を、もしやご存じないのでしょうか?」「何っ! おまえ、誰に対してそんな口を叩くんだ! 仮にも俺は……!」「ええ、ディートリッヒ・バスク侯爵。私の婚約者ですわよね? それなのに何故でしょう? 私よりも、そちらの令嬢と親しげに見えるのですが」そして栗毛色の女子学生を見つめた。「こ、怖い! ディートリッヒ様!」女子学生は咄嗟にディートリッヒの背後に隠れた。「大丈夫、俺がついている。サンドラ」サンドラと呼ばれた女子学生を慰めるように髪を撫でると、再びアデリーナを指さすディートリッヒ。「そんな目付きの悪い目で睨みつけるな! サンドラが怖がっているだろう!」「別に睨みつけてなどいませんわ。私は元々このような目つきですから。ですが先ほども申し上げましたが、あまり2人きりで学園内を歩き回られないようにお願いいたします。一応、私とディートリッヒ様は婚約者同士なのですから」「な、何だと……大体、お前と俺は親同士が勝手に決めた婚約者なだけであって、お前のことなんか認めていないからな!」「別に認めていただかなくても、私は一向に構いませんが?」「な、何だって!? 全く本当に可愛げのない女だ。サンドラ、あんな女は放っておこう」「はい、ディートリッヒ様」ディートリッヒはサンドラの肩を抱き寄せると、去っていった。「……全く、呆れた男ね。私達の婚約は覆すことなど出来ないのに」アデリーナは気にする素振りもなく、踵を返し……。「あら?」ことの一部始終を物陰から見ていたオリビアとエレナに鉢合わせしてしまった。「「あ……」」3人の間に気まずい雰囲気が流れる。「あなたたちは……?」怪訝そうに首を傾げるアデリーナ。すると――「た、大変申し訳ございませんでした! 中庭で大きな声が聞こえたので、つい何事かと思って……決して覗き見をしようとしていたわけ
石畳の町並みを赤い自転車に乗って、颯爽とペダルをこぐオリビア。大学までの道のりは自転車で片道30分。決して近い距離では無かったが、御者の顔色を伺いながら馬車に乗せてもらうよりも余程気が楽だった。何より風を切って自転車をこぐのは気持ちが良い。いつものように正門を自転車で通り抜けると、学生たちの好奇に満ちた視線が向けられる。はじめはその視線が気まずかったが、今ではすっかり慣れてしまっていた。正門の隅の方に自転車を止めると、前方から友人のエレナが手を振って近づいてきた。彼女はオリビアの自転車に興味を持ったことがきっかけで友人になれた一人でもある。「おはよう、今日も自転車で通学してきたのね?」「ええ、だってとても良い天気じゃない。多分、この様子だと雨は降らないはずよ」空を見上げれば、雲一つ無い青空が広がっている。「それじゃ、教室に行きましょう」「ええ、そうね」エレナに誘われ笑顔で返事をすると、2人で校舎へ向って並んで歩き始めた。「あのね、オリビア。私も実はあなたにならって自転車を買ったのよ」「え? そうなの? それは驚きだわ」「これも全てあなたの影響ね。ようやく少しずつ乗れるようになってきたところなの。やっぱりいつまでも、どこかへ行くのに、御者に頼るのっていやだったのよね。少しは自立出来るようにならないと」「……そうね」オリビアは曖昧に返事をした。家族関係が良好なエレナには自分の置かれた境遇をどうしても言えなかったのだ。(家族や使用人たちから冷遇されているので、馬車にも乗りづらくて自転車を使っているなんて絶対エレナには言えないわ。もしそのことを知れば、きっと気を使わせてしまうもの)「そう言えば、来月は秋の学園祭ね。後夜祭はダンスパーティーがあるけれど、パートナーはギスランと参加するのでしょう?」不意に話題を変えてくるエレナ。ギスランは同じ大学に通う同級生であり、親同士が決めたオリビアの婚約者でもあった。「ギスランがパートナーになってくれるかどうかは……まだ分からないわ」オリビアの顔が曇る。「あら? どうしてなの?」「それ……は……」オリビアはそこで言い淀む。なぜならギスランはここ最近、急激に大人っぽくなった異母妹のシャロンに夢中になっていたからだ。オリビアに会いに来たと言っては、シャロンと2人だけでお茶を楽しむような関
「それでは失礼いたします」朝食を終えたオリビアが席を立っても返事をするものは誰もいない。これもいつものことだ。オリビアは軽く会釈すると、そのままダイニングルームを後にした。廊下を歩くオリビアにすれ違う使用人たちは挨拶どころか、目を合わそうともしない。何故、彼女1人がこのような状況下に置かれているのか……それは彼女が、この屋敷では厄介者だったからだ――****オリビアの母は彼女を出産と同時にこの世を去った。愛する人を失った父と母親が大好きだった兄の喪失感は計り知れず、亡くなった原因をつくった怒りの矛先がオリビアに向けられたのだ。2人はオリビアと関わることを極力避け、彼女はメイドの手によって交代で育てられた。まだ幼かったオリビアは自分が何故父からも兄からも嫌われているのか理解できなかったが、心無いメイドの言葉で理由を知ることになる。『オリビア様のお母様は、あなたを産んだことで、亡くなってしまったのですよ』母が死んだ理由を知ったオリビアは少しでも自分を好きになってもらうために、父と兄に一生懸命愛嬌を振りまいた。絵のプレゼントや、花壇から花を摘んで花束にして渡そうと試みたが、2人は冷たい視線を投げつけるだけで受け取ってくれることは無かった。結局オリビアはプレゼントを渡すことは諦め、せめて2人と話をするときは笑顔になろうと決めた。たとえ相手にされなくても笑顔でいれば、いつかきっと2人は私を好きになってくれるはず――!そんな未来を思い描いていた矢先、父の再婚話が浮上したのである。相手の女性は当時まだ20歳になったばかりの男爵令嬢。父は彼女と再婚し……2年後、オリビアが5歳の時に異母妹となるシャロンが誕生した。 オリビアは妹の誕生に喜び、仲良くなるためにシャロンに近づいた。しかし、元からオリビアを良く思っていなかった義母がそれを許すはずなど無かった。徹底的にオリビアを遠ざけ、シャロンの前で罵倒する。そして見て見ぬふりをする父と兄。当然。シャロンもオリビアを馬鹿にするようになってしまったのだった――****「ふぅ……やっぱり自分の部屋は落ち着くわね……」部屋に戻ってきたオリビアはため息をつくと大学へ行く準備を始めた。彼女は現在、エリート貴族のみが通うことの出来る大学へ通っている。この大学は兄のミハエルすら通えなかった名門大学であり、そ
20歳の子爵家令嬢――オリビア・フォード。背中まで届くダークブロンドの髪に、グレイの瞳の彼女は貴族令嬢でありながら地味で目立たない存在だった――――7時半いつものようにオリビアはダイニングルームに向って歩いていた。途中、何人かの使用人たちにすれ違うも、誰一人彼女に挨拶をする者はいない。 使用人たちは彼女をチラリと一瞥するか、これみよがしにヒソヒソと囁き嫌がらせをする者たちばかりだった。「いつ見ても辛気臭い姿ね」突如、オリビアの耳にあからさまな侮蔑の言葉が聞こえてきた。思わず声の聞こえた方向に視線を移せば、義妹のお気に入りの2人のメイドがこちらをじっと見つめている。「あー忙しい、忙しい」 「仕事に行きましょう」目が合うと2人のメイドは視線をそらし、そのまま通り過ぎて行った。「ふん、この屋敷の厄介者のくせに」一人のメイドがすれ違いざまに聞えよがしに言い放った。「!」その言葉に足が止まりメイド達を振り返ると、楽しげに会話をしながら歩き去っていく様子が見えた。「はぁ……」小さくため息をつくと、再びオリビアはダイニングルームへ向った―― ダイニングルームに到着すると、既にテーブルには家族全員が揃い、楽しげに会話をしながら食事をしていた。「そうか、それでは騎士入団試験に合格したということだな?」父親が長男のミハエルと会話をしている。「はい。大学卒業後は王宮の騎士団に配属されることが決定となりました」「そうか、それはすごいな。私も鼻が高い」「お兄様、素晴らしいですわ」ミハエルとは腹違いの妹、シャロンが笑顔になる。 そこへ、遅れてきたオリビアが遠慮がちに声をかけた。「おはようございます……遅くなって申し訳ありません」しかし彼女の言葉に返事をする者は誰もいないし、椅子を引いてくれる給仕もいない。テーブルの前には既に食事が並べられており、オリビアは無言で着席した。 食事の席に遅れてくるのには、理由があった。それは彼女だけが家族から疎外されていたからだ。 父親からは疎まれ、3歳年上の兄ミハエルからは憎まれている。義母からは無視され、15歳の異母妹からは馬鹿にされる……そんな家族ばかりが集まる食卓に就きたいはずはなかった。 そこで出来るだけ遅れて現れるようにしていたのである。オリビアが静かに食事を始めると義母がよく通る声で自慢