石畳の町並みを赤い自転車に乗って、颯爽とペダルをこぐオリビア。
大学までの道のりは自転車で片道30分。決して近い距離では無かったが、御者の顔色を伺いながら馬車に乗せてもらうよりも余程気が楽だった。何より風を切って自転車をこぐのは気持ちが良い。
いつものように正門を自転車で通り抜けると、学生たちの好奇に満ちた視線が向けられる。
はじめはその視線が気まずかったが、今ではすっかり慣れてしまっていた。 正門の隅の方に自転車を止めると、前方から友人のエレナが手を振って近づいてきた。彼女はオリビアの自転車に興味を持ったことがきっかけで友人になれた一人でもある。「おはよう、今日も自転車で通学してきたのね?」
「ええ、だってとても良い天気じゃない。多分、この様子だと雨は降らないはずよ」
空を見上げれば、雲一つ無い青空が広がっている。
「それじゃ、教室に行きましょう」
「ええ、そうね」
エレナに誘われ笑顔で返事をすると、2人で校舎へ向って並んで歩き始めた。
「あのね、オリビア。私も実はあなたにならって自転車を買ったのよ」「え? そうなの? それは驚きだわ」
「これも全てあなたの影響ね。ようやく少しずつ乗れるようになってきたところなの。やっぱりいつまでも、どこかへ行くのに、御者に頼るのっていやだったのよね。少しは自立出来るようにならないと」
「……そうね」
オリビアは曖昧に返事をした。家族関係が良好なエレナには自分の置かれた境遇をどうしても言えなかったのだ。
(家族や使用人たちから冷遇されているので、馬車にも乗りづらくて自転車を使っているなんて絶対エレナには言えないわ。もしそのことを知れば、きっと気を使わせてしまうもの)
「そう言えば、来月は秋の学園祭ね。後夜祭はダンスパーティーがあるけれど、パートナーはギスランと参加するのでしょう?」
不意に話題を変えてくるエレナ。
ギスランは同じ大学に通う同級生であり、親同士が決めたオリビアの婚約者でもあった。「ギスランがパートナーになってくれるかどうかは……まだ分からないわ」
オリビアの顔が曇る。
「あら? どうしてなの?」
「それ……は……」
オリビアはそこで言い淀む。
なぜならギスランはここ最近、急激に大人っぽくなった異母妹のシャロンに夢中になっていたからだ。 オリビアに会いに来たと言っては、シャロンと2人だけでお茶を楽しむような関係になっていた。 それにオリビアには内緒にしているが、2人がこっそりデートをしていることもメイドたちの噂話で知っている。(シャロンはまだ15歳なのに……。でもこのままだと今にギスランは、私からシャロンに乗り換えるつもりかもしれないわ。婚約解消を告げられるのも、時間の問題かも……)
そう考えると、重苦しい気分になってくる。
ギスランは親が決めた婚約者であり、別に好きというわけでも無かった。けれど息苦しい家を早く出たいオリビアにとって、ギスランは希望の存在だったのだ。「どうかしたの? オリビア」
エレナが心配そうにオリビアの顔を覗き込んだ。
「いいえ、なんでもないわ。そういうエレナはどうなの?」
「勿論、婚約者のカールと参加するわよ。それで、ドレスのことなのだけど……」
そのとき。
「いい加減にしろ! アデリーナッ!」
校舎のそばにある中庭付近で男性の興奮した声が響き渡った。
「キャッ!」
「な、何!? 今の声は!」突然大きな声に、2人は同時に驚き、中庭を振り返った。すると3人の男女の姿が目に入った。
1人はブロンドの髪の青年。その隣には栗毛色の髪の女性が寄り添っている。 そして2人に対峙するように正面に立っているのは、情熱的な赤い髪の女性。「あら。あの方は4年生で侯爵令嬢のアデリーナ様だわ」
「え? 侯爵令嬢なの?」
エレナの言葉に驚くオリビア。
「ええ、知らなかったの? 有名な方よ。そしてあの男性はアデリーナ様の婚約者のディートリッヒ侯爵よ。でも一緒にいる女性はどなたかしら?」
けれど、エレナの言葉はオリビアの耳には届いていない。
何故なら、燃えるような髪色の美しいアデリーナにすっかり見惚れてしまっていたからだ――「何を怒ってらっしゃるのですか? ディートリッヒ様」侯爵令嬢アデリーナは真っ直ぐにディートリッヒを見つめている。「お前は俺が何故怒っているのか分からないのか!?」ディートリッヒはアデリーナを指さした。「ええ、分かりませんから尋ねているのです。それはさておき……ディートリッヒ様」キッとアデリーナはディートリッヒに鋭い目を向ける。「な、何だ?」「いくらなんでも、人を指差すのはどうかと思いませんか? 礼儀という言葉を、もしやご存じないのでしょうか?」「何っ! おまえ、誰に対してそんな口を叩くんだ! 仮にも俺は……!」「ええ、ディートリッヒ・バスク侯爵。私の婚約者ですわよね? それなのに何故でしょう? 私よりも、そちらの令嬢と親しげに見えるのですが」そして栗毛色の女子学生を見つめた。「こ、怖い! ディートリッヒ様!」女子学生は咄嗟にディートリッヒの背後に隠れた。「大丈夫、俺がついている。サンドラ」サンドラと呼ばれた女子学生を慰めるように髪を撫でると、再びアデリーナを指さすディートリッヒ。「そんな目付きの悪い目で睨みつけるな! サンドラが怖がっているだろう!」「別に睨みつけてなどいませんわ。私は元々このような目つきですから。ですが先ほども申し上げましたが、あまり2人きりで学園内を歩き回られないようにお願いいたします。一応、私とディートリッヒ様は婚約者同士なのですから」「な、何だと……大体、お前と俺は親同士が勝手に決めた婚約者なだけであって、お前のことなんか認めていないからな!」「別に認めていただかなくても、私は一向に構いませんが?」「な、何だって!? 全く本当に可愛げのない女だ。サンドラ、あんな女は放っておこう」「はい、ディートリッヒ様」ディートリッヒはサンドラの肩を抱き寄せると、去っていった。「……全く、呆れた男ね。私達の婚約は覆すことなど出来ないのに」アデリーナは気にする素振りもなく、踵を返し……。「あら?」ことの一部始終を物陰から見ていたオリビアとエレナに鉢合わせしてしまった。「「あ……」」3人の間に気まずい雰囲気が流れる。「あなたたちは……?」怪訝そうに首を傾げるアデリーナ。すると――「た、大変申し訳ございませんでした! 中庭で大きな声が聞こえたので、つい何事かと思って……決して覗き見をしようとしていたわけ
その日の昼休みのこと――オリビアとエレナが大学内に併設されたカフェテリアで食事のお茶を飲んでいるときのことだった。「え? 何て言ったの? オリビア」ココアを飲んでいたエレナが首を傾げる。「だから、アデリーナ様とお近づきになるにはどうしたらいいのかと相談しているのよ」オリビアは紅茶を口にした。「お近づきになるなんて……あの方は4年生で、しかも侯爵令嬢なのよ? 私達みたいな子爵家の者が迂闊に近づけるような方じゃないわ。しかもね……」エレナは辺りをキョロキョロ見渡し、オリビアに顔を近づけてきた。「アデリーナ様って、気が強いことから……一部の女子学生たちから恐れられているの。どうやら悪女って言われているらしいわ」「悪女ですって!」驚きでオリビアの口から大きな声が飛び出す。その言葉に周囲に座っていた学生たちが一斉に2人に注目する。「ちょ、ちょっと! 声が大きいわよ! 周りに聞こえるじゃないの!」エレナが小声で注意した。「ごめんなさい。ちょっと驚いてしまって……でも、何故悪女と呼ばれるのかしら。自分の婚約者が他の女性と一緒にいれば注意するのは当然だと思うけど……」オリビアは婚約者と妹の仲が良いのに、咎めることが出来ない自分と比較する。「そう言えば、オリビア。今朝、ギスランが後夜祭のダンスパートナーになってくれるか分からないと言ってたけど……最近、どうしてしまったの? 以前は大学内で時々一緒に行動していたのに、最近はさっぱりじゃないの。もしかして何かあったの?」「それは……」エレナに今の自分の現状を説明しようか、迷ったそのとき。「あれ? その後ろ姿……もしかして、オリビアじゃないか?」不意に背後から声をかけられた。「え?」振り向くと、婚約者のギスランが友人たちと一緒にいた。「ギスラン!」婚約者から声をかけられたことが嬉しくてオリビアは立ち上がり、笑みを浮かべる。「ちょうど良かった。今度の休みに、またお邪魔しようかと思っていたんだ。都合は大丈夫そう?」「そうだったのね? ええ、勿論大丈夫よ」笑顔のままオリビアは頷き……次の瞬間、凍りつくことになる。「そうか、ではシャロンによろしく伝えておいてくれ」「!」オリビアの肩がビクリと跳ね、エレナの息を呑む気配が伝わってくる。「え、ええ。あなたが来るから家にいるようにってシャロン
――16時本日全ての講義が終わって帰り支度をしているオリビアに、エレナが声をかけてきた。「それじゃ、オリビア。また明日ね」「ええ、また明日」エレナは手を振ると、急ぎ足で去って行った。教室の入口には彼女の婚約者、カールが待っている。「……2人で一緒に帰るのね。デートでもするのかしら?」ポツリとつぶやき、ギスランの顔を思い浮かべた。オリビアとギスランは子供時代から婚約者していたが、一度も一緒に登下校したこともなければ2人きりで出かけたこともない。ただ月に数回、学校が休みの週末にだけ顔合わせという名目でどちらかの屋敷で会うだけだった。その際、特に会話をするわけでもない。同じ空間にいれば良いだけなので、ギスランはいつも持参した本を読み、オリビアを相手にしようとはしない。そこでオリビアは出来るだけ読書の邪魔にならないように、気を使って静かに刺繍をして過ごし……時間になるとギスランは帰って行く。そんな関係がずっと続いていた。本当はもっとギスランと仲良くなりたいと思っていた。しかし、相手がそれを望んでいない以上どうすることも出来なかった。どうせいずれは結婚するのだから、2人の関係もそのうち変わって来るだろうとオリビアは割り切ることにしたのだが……シャロンが15歳になった頃から変化が起こり始めた。気づけばギスランとシャロンが急接近し、オリビアとの距離が遠のいていたのだ。2人はオリビアが気づかない間に親密になり……今では隠すこと無く堂々と一緒に過ごすようになっていた。それが、たとえオリビアの眼の前であろうとも。「……仕方ないわね。シャロンは私と違って、可愛らしくて魅力的だもの……」ポツリとつぶやき、自分のダークブロンドの髪にそっと触れる。シャロンの髪はオリビアと違い、眩しく光り輝くようなプラチナブロンドだった。瞳は深い海のような青い色。容姿だけでは、どれもオリビアには敵わない。ただ、シャロンより秀でていることがあるとすれば頭の良さだけだったろう。オリビアは才女だったが、シャロンはそれほど賢くは無かった。だが、頭の良い女性は男性からは敬遠されがちだった。「婚約解消されるのも時間の問題かもしれないわね……そして代わりにシャロンと……」ため息をつくとオリビアは立ち上がり、教室を後にした――**** オリビアは大学の図書館を訪れていた。家
(どうしてアデリーナ様がここに……? 今まで一度も図書館で出会ったことがないのに)躊躇っているとアデリーナがオリビアの姿に気付き、声をかけてきた。「本を借りに来た方ですか? どうぞ」「は、はい……」オリビアは呼ばれるままに貸出カウンターに来ると、自分の借りようとしている小説が何だったかを思い出した。(そうだった……! この本は恋愛小説だったわ。アデリーナ様のように知的な女性の前でこんな本を借りるなんて……軽蔑されてしまうかも!)「では、貸出手続きを行うので本を貸していただけますか?」アデリーナは笑顔で話しかけてくる。こんなことなら歴史小説でも借りれば良かったとオリビアは後悔したが、今更引き返すことなど出来ない。「お願いします……」恐る恐る抱えていた本をカウンターに置いた。するとアデリーナは笑顔になる。「まぁ、あなたもこの本を借りるのですか? 私も以前読んだことがあるのですよ。とてもロマンチックな恋愛小説でした。お勧めですよ?」「え? ほ、本当ですか?」まさか借りようとしていた本をアデリーナが読んでいたことを知り、オリビアは嬉しい気持ちになった。けれど、自分のことを全く覚えていない様子に少し寂しい気持ちもある。「ええ、夢中になって頁をめくる手が止まらずに、3日で読み終わってしまいました。では、貸出カードに名前を書いて下さい」「はい。分かりました」オリビアは卓上のペンを手に取ると、名前を書いた。「お願いします」貸出カードに名前を書いて、アデリーナに差し出した。「オリビア・フォードさんですね? 貸出期間は2週間になります。では、どうぞ」アデリーナから本を受け取ったものの、オリビアはまだ話がしたかった。「あ、あのアデリーナ様!」「え? どうして私の名前を?」「私のこと、覚えておりませんか? 今朝、友人と中庭でお会いしたのですけど」その言葉に、アデリーナはじっとオリビアを見つめ……。「あ、思い出したわ! 何処かで会ったような気がしていたけれど、今朝会っていた人だったのね?」「はい、そうです。私のこと思い出していただき、嬉しいです」「今朝はお恥ずかしいところを見せてしまったわね。ただでさえ私はこの赤毛のせいで悪目立ちしているのに。本当にいやになってしまうわ」アデリーナは自分の髪を見つめて、ため息をつく。「あの、アデリー
その日から、オリビアは放課後毎日図書館に通うようになった。試験期間中以外は放課後に図書館に来るような学生は滅多にいない為、アデリーナとオリビアの2人きりの空間になっていた。はじめの頃はアデリーナと本について話をするようになっていたが、2人の親交が深まるに連れ、徐々に踏み込んだ話へ変わっていったのだった……。――放課後、帰り支度をしていると隣の席のエレナがオリビアに声をかけてきた。「オリビア、今日一緒に途中まで帰らない? 私、実は自転車で通学してきたのよ」「え? エレナ……もう自転車を乗りこなせるようになったの? 驚いたわ」「フフフ。自転車に乗る練習にはカールに付き合ってもらったわ。彼のおかげね」「そうだったのね? でももう自転車で通学してくるなんてすごいわ」「でしょう? 自転車って気持ちいいわね。風を切ってスイスイ走る爽快感は素敵だわ。だから2人で自転車に乗って帰らない? 途中、どこか喫茶店に寄りましょうよ」それは、とても素敵な誘いだった。けれど……。「ごめんなさい、エレナ。実は今日、約束があるの」今日、アデリーナは図書委員が休みの日だった。そこで、2人で大学構内に設けられたカフェテリアでお茶を飲むことにしていたのだ。「そうだったのね……あ、もしかしてギスランと約束しているの? 良かったじゃない」「いいえ、違うわ。アデリーナ様とよ」「そう、アデリーナ様と……ええっ!? そ、その話本当なの!?」エレナは大げさに驚く。「ええ、本当よ。そんなに驚くことかしら?」「もちろん、驚くことに決まっているでしょう? だって、あのアデリーナ様よ? 侯爵令嬢であり、あの……悪女と名高い」「悪女というのは誤解よ。それはね、婚約者のディートリッヒ様があらぬ噂話を広めているだけに過ぎないのよ。何しろディートリッヒ様は他に想い人の女性がいるから」「それは、そうかもしれないけれど……でも……」「エレナ……」オリビアがじっと見つめると、エレナは頷いた。「分かったわ、他ならぬ親友のオリビアの話だから信じるわ。約束があるなら仕方ないわね、カールと帰ることにするわ」「ごめんなさい、エレナ」「いいのよ、それじゃまた明日ね」「ええ、また明日」エレナは手を振り、教室を出て行った。「私もアデリーナ様との待ち合わせ場所に行かなくちゃ」そしてオリビアも待ち
「ところで、アデリーナ様。もうすぐ学園祭ですけど、後夜祭には参加されるのですか?」オリビアはミルクティーを飲みながら尋ねた。「ええ、今年最後の後夜祭だから参加するわ」「それでは、パートナーはどうされるのですか?」オリビアは自分自身もパートナーのことで悩んでいたのでアデリーナのことが気になったのだ。「一応、婚約者がディートリッヒだから彼がパートナーになる予定なのだけど……恐らく無理かもしれないわ。それに何だか嫌な予感がするし……」「嫌な予感? それって……」「いいえ、何でもないわ。それより、オリビアさんはどうなの? 確か婚約者がいたはずよね?」アデリーナには婚約者がいる話はしていたが、詳しい事情はまだ説明したことは無かった。「は、はい。そのことなのですが……実は……」ついにオリビアは全てを告白することにした。婚約者のギスランは15歳の異母妹に夢中なこと。 父親からは疎まれ、3歳年上の兄ミハエルからは憎まれている。義母からは無視され、15歳の異母妹からは馬鹿にされていること。その為、使用人たちからも無視をされている……それら全てを告白したのだ。アデリーナはその間、一度も口を開くこと無く黙って聞いていたが……やがて話が終わるとミルクティーを一口飲み……。カチャッ!乱暴にティーカップを皿の上に置いた。「ア、アデリーナ様?」今まで一度も見せたことのない態度にオリビアは戸惑う。「……信じられないわ……一体、その話は何なの!? オリビアさんにそんな態度をとるなんて……許せないわ!」アデリーナの声が店内に響き、中にいた数人の学生客たちがギョッとした様子で2人を見つめる。「アデリーナ様。私の為に怒ってくださるのは嬉しいですが、私なら大丈夫ですから」「いいえ、少しも大丈夫じゃないわ。いい? オリビアさん。あなたのお母様が亡くなったのは、あなたのせいではないわ。こういった言い方はあまり良くないかもしれないけれど、そうなる運命だったのよ。それをあなたの家族たちは何て酷いことをするのかしら。こんなにオリビアさんは優秀なのに」憤慨した様子でアデリーナは続ける。「あなたのお兄様は、この学園に入学することすら出来なかったのでしょう? でもオリビアさんは入学し、学年で上位の成績を修めている。もっと誇るべきよ。なのに、何故そんな窮屈な思いをしているの?」
「アデリーヌ様……私、我慢も媚びを売る必要もないってことでしょうか?」「ええ、当然よ。だって、あなたは家族よりも婚約者よりも優れているのだから。もっと自分に自身を持つのよ」アデリーヌはオリビアの手をしっかり握りしめた。「分かりました、私自分に自身が持てそうです。もう今日から家族にも婚約者にも、そして使用人にも媚びを売るのはやめることにします!」「ええ、そうよ。オリビアさん! 頑張るのよ!」「はい!」そして、2人は店内にいるすべての人々の注目を浴びながら、固く手を握りしめあうのだった――**** 18時を少し過ぎた頃、オリビアは屋敷に帰ってきた。 自分の部屋目指して歩いていると、前方から義母のゾフィーがメイドを連れてこちらに歩いてくるのが見えた。いつものオリビアなら挨拶をする。しかし、義母からは一度たりとも挨拶を返されたことなどない。完全無視をされているのだ。(どうせ挨拶しても無視されるのだもの)媚びを売るのをやめると心に誓ったオリビアはそのままゾフィーに視線を合わせることもなく歩いていき……通り過ぎた途端。「待ちなさい」ゾフィーに背後から声をかけられた。しかし、オリビアはそのまま無視して歩いていると先程よりも大きな声で呼び止められた。「オリビア! お待ちなさい!」そこでオリビアは足を止めて振り返った。「何でしょうか?」「何でしょうかじゃないわ。私に挨拶をしないとはどういうつもり? しかも最初の呼びかけで無視をしたでしょう? 理由を説明しなさい!」険しい視線でゾフィーはオリビアを睨みつけている。そして何故か背後にいるメイドも一緒になってオリビアを睨んでいる。「どうしていつも私を無視する人に挨拶をしなければいけないのですか?」「な、何ですって!?」まさか反論されるとは思わなかったのだろう。ゾフィーの顔が一段と険しくなる。「それに、一度目の呼びかけに返事をしなかったのは名前を呼ばれなかったからです。『お待ちなさい』だけでは誰に呼びかけているのか分かりませんから」オリビアはため息をつきながら大げさに肩を竦めると、ゾフィーはヒステリックに喚いた。「な、なんて生意気な……!とにかく挨拶は基本よ! それぐらい常識でしょう!?」「これは驚きましたね。まさか、お義母様から常識と言う言葉が出てくるとは思いませんでした。今まで一度も私
オリビアは自分の部屋に戻ると机に向かい、カバンから書類を取り出した。この書類はアデリーナから教えてもらった物で、大学院入学届の申請書だった。優秀な学生は無償で大学院に進学することができ、さらに寮に入れば生活の面倒も見てくれるという素晴らしい内容が記されている。アデリーナと別れた後、学務課に寄って貰ってきたのだ。「父も兄も、女の高学歴を良く思っていないわ。当然大学院の進学なんて反対するに決まっている。大体卒業後はギスランと結婚させて進学もさせないつもりなのだから」……いや、そもそもギスランは自分と結婚する気があるのだろうか? 異母妹のシャロンと親密な仲である状況で……。そんな事を考えながら、オリビエは書類の記入を始めた――****一方その頃……。「聞いて下さい、あなた!」ゾフィーはノックもせずに乱暴に扉を開けると、夫――ランドルフの書斎にズカズカと入ってきた。その非常識な振る舞いにランドルフは眉をひそめる。「何だ、ゾフィー。随分と騒がしくしおって。見ての通り、仕事の書類がたまっていて今忙しいのだ。話なら後にしてくれ」「いいえ! 聞いていただきます。オリビアが私に歯向かったのですよ! 生意気にもあのオリビアが私に挨拶もせずに無視したたのですよ!」悔しさをにじませながら机を叩くゾフィー。「だが、お前の方こそ今までオリビアを無視してきただろう? いつもお前に声をかけても無視されるから、オリビアも挨拶するのを諦めたのだろう。別にいいではないか。あんな娘など、気にする価値もない」あまりにも呆気ないランドルフの態度にゾフィーは苛立ちを募らせた。「何を言っているのです! それだけではありません! 何故挨拶をしなかったのか問い詰めたら謝るどころか、生意気にも私に言い換えしてきたのですよ!」「何? オリビアがお前に言い返してきたのか? 確かにそれは由々しき事態だな……」「ええ。だから今すぐオリビアの部屋に行って、あなたから、お説教を……」「イヤ、それは無理だな」「……は? あなた。何をおっしゃってるの?」「だから今は忙しいのだと言ったばかりだろう? お前にはこの書類の山が見えないのか?」「ですが、こういうことは早めに説教するべきです! また憎たらしい態度をとられる前に!」「いいかげんにしろ! ここ最近目の回るような忙しさなんだ! 説教な
「決闘だって!?」「侯爵令嬢が決闘を申し出たわ!」「これは大事件だ!」集まる学生たちは、目の色を変えて大騒ぎを始めた。赤い髪を風になびかせ、学生たちの好奇の視線を浴びるアデリーナの姿はオリビアの心を震わせた。(アデリーナ様……素敵! 素敵すぎるわ! あの凛々しいお姿……まさにこの世の奇跡だわ……)アデリーナの姿に感銘を受けたのはオリビアだけではない。女子学生たちの見る目も変わってきていた。「何だか……ちょっと素敵じゃない?」「ええ、誰が悪女なんて言ったのかしら」「私、好きになってしまいそう……」余裕の態度のアデリーナに対し、ディートリッヒは青ざめていた。けれどそれは無理も無い話だろう。決闘を申し込んできたのは女性、しかも婚約者なのだから。「ア、アデリーナッ! お前、本気で俺に決闘を申し込んでいるのか!?」「ええ、そうです。あなたのせいで私の大切な友人が手を怪我したのですから当然です!」その言葉にオリビアは衝撃を受けた。(え!? まさか決闘って……私の為だったの!?)一方、面食らうのはディートリッヒ。「何だって!? 俺は誰も怪我させたりなどしていないぞ! 言いがかりをつけるな!」「確かに、直接手を下したわけではありませんが……ディートリッヒ様! 貴方のせいで彼女が怪我をしたのは確かです! それに手袋を拾った以上、決闘の申し込みを受けて頂きます!」「くっ……」大勢のギャラリーに見守られ、逃げ場がないディートリッヒ。「そ、それじゃ……勝者にはどんな得があるんだ?」「そうですね。もしディートリッヒ様が私に勝てば、どんな命令にも従いましょう」「そうか。ならもし俺が勝ったら地べたに這いつくばって、サンドラに詫びを入れて貰おう」「ディートリッヒ様……」サンドラが頬を赤らめ、周囲のざわめきが大きくなる。「おい、聞いたか? 謝れだってよ」「そんな……侯爵令嬢が男爵令嬢に謝るなんて」「これは屈辱だな」「ええ、良いでしょう。地べたに這いつくばるなり、何なりとしてあげますわ。それどころか1日、サンドラさんのメイドになって差し上げてもよろしくてよ?」「ほ、本当ですか? 本当に……私のメイドになってくれるのですね?」サンドラが図々しくもアデリーナに尋ねてくる。「ええ、ただし私が負けたらですけど?」毅然と頷くアデリーナに、ディート
それは昼休みのことだった。親友のエレナが今日は婚約者のカールと昼食をとるということで、オリビアは1人でカフェテリアへ向かうため、他の学生たちに混じって渡り廊下を歩いていた。中庭近くに差し掛かったとき、大勢の学生たちが集まって何やら騒いでる様子に気付いた。(一体何を騒いでいるのかしら)少し気になったが、そのまま通り過ぎようとしたとき学生たちの会話が耳に入ってきた。「またアデリーナ様とディートリッヒ様か」「本当に騒ぎを起こすのが好きな方ね。さすがは悪女だわ」「でも、あれじゃ文句の一つも言いたくなるだろう」「え!? アデリーナ様!?」オリビアが反応したのは言うまでもない。「すみません! ちょっと通して下さい!」群衆に駆け寄り、人混みをかき分け……目を見開いた。そこには例の如く、ディートリッヒと対峙するアデリーナの姿だった。当然ディートリッヒの傍にはサンドラがいる。そしてディートリッヒはいつものようにアデリーナを怒鳴りつけていた。「いい加減にしろ! アデリーナッ! 毎回毎回、俺達の後を付回して! 言っておくが、今度の後夜祭のダンスパートナーの相手はお前じゃない! ここにいるサンドラと決めているからな! いくら頼んでも無駄だ! 覚えておけ!」「は? 何を仰っているのですか? 私がディートリッヒ様の前に現れたのは、まさか後夜祭のパートナーになって欲しいと頼みに来たとでも思っていたのですか?」両手で肘を抱えるアデリーナは鼻で笑う。「何だよ。違うっていうのか?」「ええ、違いますね。大体ディートリッヒ様が私のパートナーになるなんて冗談じゃありません。こちらから願い下げです」「……はぁっ!? な、何だとっ! 今、お前俺に何て言った!?」「もう一度言わなけれなりませんか? 仕方ありませんね……では、言って差し上げましょう。ディートリッヒ様と一緒に後夜祭に行くぐらいなら、カカシを連れて参加したほうがマシですわ」すると周囲の学生たちが一斉にざわめく。「おい、聞いたか?」「まぁ、カカシですって?」「よもや、人ではないじゃないか」「お、おかしすぎる……」「アデリーナ様……」オリビエも驚きの眼差しでアデリーナを見つめていた。「アデリーナッ! よりにもよってカカシの方がマシだと!? お前、一体なんてことを言うのだ! 冗談でも許さないぞ!」
大学へ行く準備を済ませ、オリビアエはエントランスへ向かった。「おはようございます。オリビア様」「これから大学ですか?」「お気をつけて行ってらっしゃいませ」すれ違う使用人たちが丁寧にオリビアに挨拶をしていく。これはオリビアにとって、ちょっとした驚きだった。(まさか、ここまで周りが変わるなんて本当に驚きだわ。今まで皆挨拶どころか、すれ違いざまに悪口を言う使用人が多かったのに。やっぱりアデリーナ様の言う通り、我慢する必要は無かったということよね)エントランスに到着したので、オリビアは上機嫌で扉を開けた。 すると目の前に馬車が待機しており、笑顔のテッドの姿がある。「まぁテッド。一体どうしたの? まさか私を馬車で送ろうと思って待っていたの?」「はい、そのまさかです。今朝は昨夜降り続いた雨のせいで道がぬかるんでいます。自転車で通学するのは大変かと思い、お迎えにあがりました」ニコニコ笑顔のテッド。「送ってもらって良いのかしら? 私の他に今日は誰か馬車を使うかもしれないのに?」「馬車はあと2台ありますし、御者も2人います。俺がオリビア様をお乗せしても大丈夫ですよ」「それはなんとも頼もしい言葉ね。だったら今日も乗せてもらうわ」オリビアは早速馬車に乗り込んだ――**** 馬車が大学敷地内にある馬繋場に到着した。「送ってくれてどうもありがとう」馬車を降りると、テッドに礼を述べるオリビア。「いえ、お礼なんて結構です。俺の仕事ですから。それではまた帰りの時間にお迎えにあがりますね」「ありがとう。それじゃ行ってくるわ」オリビアはテッドに手を振り、校舎へ向かった。 「オリビアッ!」廊下を歩いていると、背後から大きな声で名前を呼ばれた。「あら、ギスラン。おはよう。珍しいわね、貴方が私を呼び止めるなんて」「何だよ。嫌味のつもりか?」ギスランの顔に不機嫌そうな表情が浮かぶ。「別に嫌味のつもりじゃないけれど……私に何の用かしら?」「実は、オリビアに聞きたいことがあるんだが……昨夜、フォード家に電話を入れたんだよ」「え? 電話? そんな話、知らないわよ?」「知らないのは当然だろう。何しろ、俺はシャロンに電話を繋いでもらうためにかけたんだから」「え? シャロンに?」婚約者のオリビアを前にして、悪びれる素振りも無く堂々と語るギスラン。(仮に
—―翌朝 静かなダイニングルームに向かい合わせで座るランドルフとオリビアは無言で食事をしていた。ランドルフは先ほどからチラチラとオリビアの様子を伺っている。娘に話しかけるタイミングを計っているのだが、オリビアは視線を合わせる事すらしない。何とか会話の糸口をつかみたいランドルフは、そこで咳払いした。「ゴ、ゴホン!」「……」しかし、オリビアは気にする素振りも無く食事を続けている。ついに我慢できず、ランドルフは声をかけた。「オ、オリビアッ!」「……はい、何でしょう」顔を上げるオリビア。「どうだ? オリビア。今朝の朝食はお前の好きな料理を用意したのだが……美味しいかね?」「はい、美味しいです。ですがこのボイルエッグも、ブルーベリーのマフィンにグリーンスープはシャロンの好きなメニューではありませんか?」「何? そうだったか?」「ええ、そうです。私は卵料理なら、オムレツ。ブルーベリーのスコーンに、オニオンスープが好きです。尤も、一度もお父様に自分の好きな料理を聞かれたことはありませんので、ご存じありませんよね?」「そ、そうか……それはすまなかったな」途端にしおらしくなるランドルフ。「いえ、私は何も気にしておりませんので謝る必要はありません。それにどの料理も全て美味しいですから」「本当か? なら良かった。だが、オリビア。今回の件で私は良く分かった。この屋敷の中で、まともな家族はお前だけだということをな。今まで蔑ろにしてきた私を許してくれるか? これからは心を入れ替えて、お前を尊重すると約束しよう」「はぁ……」オリビアは呆れた様子で父親の話を聞いていた。(一体今更何を言っているのかしら? 生まれてからずっと、私の存在を無視してきたくせに。もうこれ以上話を聞いていられないわ。丁度食事も終わった事だし、退席しましょう)「お父様。食事もおわりましたし、これから大学へ行くのでお先に失礼します」椅子を引いて席を立ったところで、ランドルフが呼び止める。「ちょっと待ってくれ! オリビアッ!」「何でしょうか? まだ何かありますか?」内心辟易しながら返事をする。「ああ、ある。昨夜の件の続きだが……頼むオリビア! この間お前が食事してきた店を教えてくれ! この通りだ! 最近新聞社から、催促されているのだ! 若い世代に人気の定番料理に関するコラムを書い
「分かりました。お父様とどのような話をしたのか、お話いたします」「そうよ! 早く言いなさい!」ゾフィーは身を乗り出してきた。「ですが、その前に条件があります。その条件を飲んでくれない限り、お話することは出来ません」「どんな条件よ? お金でも欲しいのかしら? いくら欲しいのよ」「お金? そんなものは別にいりません。条件は一つだけです。私の話が終わったら、一切の質問もせずに即刻この部屋を出て行って下さい。いいですか?」「分かったわよ。それじゃ、どんな話をしていたのか言いなさい!」膝を組み、腕を組む。何処までも高飛車な態度のゾフィー。「お父様は、言ってましたよ。もう我が家は家庭崩壊だ、あんな家族と一緒の食事は楽しめないからごめんだと。これからは私と2人で食事をしようと提案してきたのです」(もっとも、そんな提案私はお断りだけどね)その話に、見る見るうちにゾフィーの顔が険しくなっていく。「な、な、何ですって……? ランドルフがそんなことを……? ちょっと! それは一体どういう……!」「そこまでです!」オリビアはゾフィーの前に右手をかざし、大きな声をあげた。その声に驚き、ゾフィーの肩が跳ねあがる。「ちょ! ちょっと! そんな大きな声を上げないでちょうだい! 驚くでしょう!?」「そこまでです。先ほどの私との約束をもうお忘れなのですか? 話を聞いた後は一切の質問もせずに即刻この部屋を出て行くと言う約束を交わしましたよね?」「う……お、覚えているわよ!」「だったら、今すぐ出て行って下さい。何か言いたいことがあるなら私にではなく、父に言っていただけますか?」「な、何ていやな娘なの!? ランドルフに聞けないから、お前の所に来たっていうのに……!」「頼んでもいないのに、勝手にこの部屋に来たのはどちら様でしょうか? とにかく、約束は守って頂きます。今すぐに出て行って下さい」オリビアはゾフィーを見据えたまま、部屋の扉を指さした。「くっ! オリビアのくせに生意気な……! ええ分かりましとも! 出て行くわよ! 出て行けば良いのでしょう!? 全く……ちょっとランドルフに贔屓にされたからって、いい気になって!」椅子に座った時と同様に、ガタンと大きな音を立ててゾフィーは立ち上がった。「……お邪魔したわね!」「ええ、そうですね」睨みつけるように見下ろすゾ
「ふぅ……今日は充実していたけど、何だかとても疲れた1日だったわ。こんな時はアレね」入浴を終えて、自室に戻って来たオリビアは事前にトレーシーが用意してくれていたワインをグラスに注いで香りを楽しむ。「フフ、いい香り」カウチソファに座り、アデリーナが勧めてくれた恋愛小説を手に取った時。—―ガチャッ!乱暴に扉が開かれ、義母のゾフィーがズカズカと部屋の中に入ってくるなり怒鳴りつけてきた。「オリビアッ! 一体今まで何処へ行っていたの! 私は何度もこの部屋に足を運んだのよ? 手間をかけさせるんじゃないわよ!」いきなり入って来たかと思えば、耳を疑うような話にオリビアは目を見開いた。「は? ノックもせずに部屋に入って来たかと思えば、一体何を言い出すのですか? まさか人の留守中に勝手に部屋に出入りしていたのですか?」「ええ、そうよ! これでも私はお前の母なのよ! もっとも血の繋がりは無いけどね。娘の部屋に勝手に入って何が悪いのよ」ゾフィーは文句を言うと、向かい側の席にドスンと腰を下ろした。「血の繋がりが無いのだから、私たちは他人です。大体、今まで一度たりとも私を娘扱いしたことなど無かったではありませんか!」「おだまり! オリビアのくせに! 戸籍上は親子なのだから、私はお前の母親なのよ! その親に対して口答えするのではない!」「はぁ? 今朝、散々シャロンに罵声を浴びせられていましたよね? そのセリフ、私にではなく、むしろシャロンに言うべきではありませんか?」「シャロンは部屋に鍵をかけて、閉じこもってしまったのよ! 取りつく島も無いのよ! 今はそんな話をしに来たわけじゃないわ。オリビアッ! お前、一体私たちに何をしたの! 何の恨みがあって、家庭を崩壊させたのよ!」あまりにも八つ当たり的な発言に、オリビアは怒りを通り越して呆れてしまった。「一体先程から何を言ってらっしゃるのですか? 意味が分かりません。大体元からいつ壊れてもおかしくない家族関係だったのではありませんか? そうでなければ簡単に崩壊したりしませんから。念の為、言っておきますが私には全く関係ない話です」「関係ないはずないでしょう!? さっきも父親と2人きりで楽しそうに食事をしていたでしょう? 一体何の話をしていたの! 言いなさい!」ビシッとゾフィーは指さしてきた。「あぁ……成程。つまり私と
「はぁ、そうですか……」別にありがたみもない提案に、適当に返事をするオリビア。(さっさと食事を終わらせて、早々に席を立った方が良さそうね)無駄な会話をせずに食事に集中しようとするオリビアに、父ランドルフは上機嫌で色々話しかけてくる。煩わしい父の言葉を「そうですか」「すごいですね」と、適当に相槌を打って聞き流していたオリビアだったのだが……。「ところでオリビア、昨日町へ1人で食事へ行っただろう? 何という店に行ったのだ? 私にも教えてくれ。是非その店に行ってみたいのだよ。私が行けば店の宣伝にもなるしな」この台詞に、オリビアは耳を疑った。「……は?」カチャンッ!手にしていたフォークを思わず皿の上に落としてしまう。「どうした? オリビア」娘の反応にランドルフは首を傾げる。「お父様、今何と仰ったのでしょうか?」「何だ、よく聞きとれなかったのか? 昨日お前が食事をしてきた店を教えてくれと言ったのだが」「そうですか……では、そのお店に行かれた後はどうなさるおつもりですか?」オリビアは背筋を正すと父親を見つめる。「それは勿論食事をするだろうなぁ」「なるほど、お食事ですか……それで、その後は?」「は? その後って……?」まるで尋問するかのような口ぶり、いつにもまして鋭い眼差し……ランドルフはオリビアから、何とも形容しがたい圧を感じ始めていた。「答えて下さい、食事をした後の行動を」「そ、それは……味の評価を書く為に記事を書くだろうな……」(な、何なんだ……オリビアの迫力は……当主である私が娘に圧されているとは……)いつしかランドルフの背中に冷たい物が流れていた。そんなランドルフにさらにオリビアは追い打ちをかける。「はぁ? 記事を書くですって? 一体どのような記事を書くおつもりですか?」「そんなのは決まっているだろう。美味しければそれなりの評価を下すし、まずければ酷評を書くだろう。何しろ、こちらは金を支払って食事をするのだから当然のことだ。私の責務は世の人々に素晴らしい料理を提供する店を知ってもらうことなのだから」娘の圧に負けじと、ランドルフは早口でぺらぺらとまくしたてる。「お店から賄賂を受け取って、ライバル店をこき下ろすことがですか?」「う! そ、それは……ほんの特例だ! あんなことは滅多に起こらないのだよ!」「滅多にどころ
—―18時 オリビアは自室で大学のレポートを仕上げていた。このレポートは単位に大きく関わってくる。アデリーナの助言によって、大学院進学を決めたオリビアにとっては重要なレポートだ。「……ふぅ。こんなものかしら」ペンを置いて一息ついたとき。—―コンコンノック音が響いた。「誰かしら?」大きな声で呼びかけると扉がほんの少しだけ開かれて、トレーシーが顔を覗かせた。「オリビア様……少々よろしいでしょうか?」「ええ、いいわよ。入って」「失礼します」かしこまった様子で部屋に入って来たトレーシーは深刻そうな表情を浮かべている。「トレーシー。どうかしたの?」「あの、実は旦那様がお呼びなのですが……」「え? お父様が?」今迄オリビアは個人的に父に呼び出されたことはない。ひょっとすると、今朝の出来事で何か咎められるのだろうか……そう考えたオリビアは憂鬱な気分で立ち上がった。「分かったわ。書斎に行けばいいのね?」「いえ、違います。ダイニングルームでお待ちになっていらっしゃいます」「え? ダイニングルームに?」「はい、そうです」「おかしな話ね……今まで食事の時間に呼ばれたことはないのに」「そうですよね……」オリビエとトレーシーは顔を見合わせた——**「お待たせいたしました。お父……さ……ま?」ダイニングルームに入ってきたオリビアは驚いた。何故なら真正面に父——ランドルフが満面の笑みを浮かべて待ち受けていたからだ。父の左右には給仕を兼ねたフットマンが立っている。しかも、いつも着席しているはずの義母、シャロン、兄ミハエルの姿も無い。「おお、待っていたぞ。オリビア、さぁ。席に着きなさい」ランドルフは自分の向かい側の席を勧めてくる。「はぁ……失礼します」そこへ、スッとフットマンが近づくとオリビアの為に椅子を引いた。これも初めてのことだった。何しろこの屋敷の使用人達は全員オリビアを見下していたのだから。「……ありがとう」慣れない真似をされたオリビアは落ち着かない気持ちで礼を述べる。「いいえ、とんでもございません」ニコリと笑うフットマン。……彼は今まで一度もオリビアに挨拶すらしたことが無い使用人だ。「よし、それでは早速食事にしようか?」ランドルフの言葉と同時にワゴンを押したメイドが現れ、次々に料理を並べていく。どれも出来たて
時々雷がゴロゴロとなる土砂降りの中、馬車はフォード家の屋敷前に到着した。「オリビア様、足元に気をつけて降りて下さい」御者に扉を開けてもらい、馬車から降り立ったオリビアは銀貨1枚を御者に差しだした。「今日は大雨の中、送迎してくれてありがとう。はい、これ少ないけど何かの足しにしてちょうだい」フォード家では給料以外で普通、使用人に余分なお金を渡すことはない。当然オリビアの行動に御者は驚く。「ええっ!? これはぎ、銀貨じゃありませんか! よろしいのですか!? こんなに頂いても!」青年御者――テッドは歓喜した。何しろ銀貨1枚というのは、一か月分の給料の5分の1に相当する金額だからだ。当然、賢いオリビアはその事を知っている。それに彼には近々結婚を考えている女性がいて、お金を貯めていると言う噂話も承知の上だ。「いいのよ、これは大雨の中身体を張って送迎してくれた手当てだから。その代わり、これからも天候が悪いときは送ってくれるわよね? テッド」オリビアが笑顔で頷くと、テッドは声高に叫んだ。「俺の名前も御存知だったのですか!? ええ、ええ! 当然ですとも! 今後はこの命を懸けてでも、オリビア様を目的地に必ず送り届けることを誓います!」「そう? それは頼もしい言葉ね。今日はお疲れ様。じゃあね」「ありがとうございます! ありがとうございます!」テッドはオリビアが屋敷の中に入るまで、ペコペコ頭を下げ続けた。こうしてまた1人、オリビアは使用人を味方につけることに成功したのだった――屋敷に入り、自室に向かって歩いていると次々と使用人達が挨拶してくる。「お帰りなさいませ、オリビア様」「オリビア様、お帰りなさいませ」「オリビア様にご挨拶申し上げます」今や彼女を無視したり、暴言を吐くような使用人は誰一人いない。たった1日で使用人の態度がこんなに変わるのは、驚きでしかなかった。勿論今朝のオリビアの行動が事の発端でもあるのだが、父ランドルフと兄ミハエルが、今後一切オリビアを無視したり蔑ろにしないようにと密かに命じていたのが大きな理由の一つであったのだが……その事実を彼女はまだ知らない。自分の部屋に辿り着いたオリビア。ドアノブに手をかけようとした時、背後から声をかけられた。「オリビア」「え?」振り向くと、兄のミハエルが笑顔で自分を見つめている。オリビ